今の福岡平野のほとんどが湾であり、筑紫平野(筑後平野と佐賀平野)は内海、糸島は実際に島であり、宗像も湾であったとされた
これにより従来の「吉野ケ里」と「平原」、「奴国」、「新原・奴山」は同じ文化圏ではないという通説が覆った
つまり佐賀平野系と糸島系、早良平野を除く福岡平野系、福津・宗像系は交流があり、文化圏も同じだという可能性が大きくなった
上記の新聞記事が鮮明でないので5,000年前の海水面を再現した地図が↓
福岡平野を拡大し図が↓
縄文時代とは山の形が若干違うと思われるが、リアス式海岸になってるのが分かる
三郡山と砥石山の西側が宇美川によって削られ、若杉山の南側が須恵川によって削られ、現在の宇美町がすでに扇状地となっており
若杉山の北側を流れる多々良川によって畝原山(うねはらやま)の南の斜面が土砂崩れを起こして現在の鳴淵(なるふち)ダムの原型が形成され、のちの海岸線後退で三角洲となり現在の篠栗町になるのが容易に想像できる
ここで注目したいのは若杉山の
稜線若杉山の南側と砥石山の北西が須恵川によってガッツリ削り取られているのが分かるが、地図上の篠栗小から続く稜線が南側の断崖でプッツリと切れ、
砥石山~三郡山~宝満山の山頂を通る稜線はやや東側にズレている
縄文時代より遥か昔には、地図上の篠栗小から九州登山情報センターまで一続きの稜線だったはずだ
これまではズレているのではなく、風化によって柔らかい稜線が削られてショウケ越あたりが山体崩壊したと考えられてきたが、やっぱりズレたのではないかという可能性が出てきた
それが昨年発見された宇美断層
図の中央を走る青い線が2005年に西方沖地震の原因となった警固断層で右の赤い線が宇美断層
2016年のトレンチ調査で分かったのは
千年に3センチずつズレてること
この断層による人的被害は歴史に記録されいないこと
最近の活動は4万5千年くらい前(この時は2メートルくらいズレた)
動作は西側隆起の左横ずれ(博多平野側が内陸に押し込まれる動作)
地図で見ると宇美断層は福岡インターから宝満山の麓につながってるが、実際には玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)からうきは市くらいまでつながってると予想される
おそらく9万年前の阿蘇山最後の大噴火(Aso4)で筑紫平野がうきは市側に引っ張られ、その際に福岡平野も筑紫野市側に引っ張られて稜線がズレたと考えられる
こうやって長い年月をかけて若杉山は形成され
太古には博多湾を一望できる聖地として日本最古の海人族-安曇氏族に祀られて神話に取り込まれ
一時は神功皇后によって同体化したにも関わらず
南側の断崖がワタツミを信奉する篠栗側とオオヤマツミを信奉する宇美・志免側との軋轢を生み
海神(ワタツミ)信仰の修験者は空海に取り込まれて真言宗化し、山神(オオヤマツミ)信仰の山伏は最澄に取り込まれて天台宗化し
真言宗と天台宗は同じ密教にも関わらず、干戈に訴え300あった僧坊の殆どが焼失し
黒田長政が神楽座を実施させたにも関わらず、明治になると仲違いして太祖神楽と宇美神楽に分裂
歴史を調べても、地形を調べても
実は若杉山の歴史は海側(篠栗・久山)と山側(宇美・志免)のケンカ場として存在してると言っても過言ではない